ホワットマンとハウマンのブログ

ホワットマンは新しい仕事を考案する人、ハウマンはその仕事を実行する人

20世紀を最も騒がせたホワットマン カール・マルクスとソ連

 カール・マルクスは「資本論」を著し、格差なき社会を訴え、共産主義のホワットマンとなった。それをロシアで実現するため、ロシア革命が起こり、ハウマンとしてのソ連邦ができた。

 ソ連邦では国家主体(全員が国家公務員)のため、新たなホワットマンが現れない社会となり、次第に経済が衰退していった。ホワットマンなきソ連邦はホワットマンが続出する自由の国アメリカに経済戦争で敗れた。そして、1991年11月ソ連邦が崩壊した。カールマルクスのホワットは実現できないのか。キナ臭いソ連を平和裏に解体したゴルバチョフは偉大なホワットマン & ハウマンと思われる。

ユダヤ人はホワットマン

 ユダヤ人は国を亡くし、他国を放浪し、他国で迷惑をかけず生活するために、既存の商売「パン屋、靴屋等」がやりづらかった。迷惑のかからない新しい仕事を始める必要があった。そのため人の嫌がる金貸しや新しいものを作る科学者、技術者などとなって他国で活躍したようです。必然的に多くのユダヤ人は「ホワットマンとハウマン」になり、世界の経済、文化、政治、科学、技術に影響をおよぼした。

 大航海時代から、世界の覇権はオランダ→スペイン・ポルトガル→イギリス→アメリカと変遷していった。ユダヤ人の移動がこの覇権の変遷にかかわっているようです。

アヘン戦争のホワットマン魏源と明治維新

 イギリスの商人が清国にアヘンを密輸し、清国でアヘン中毒患者があふれた。そこで、清国の大臣の林則除がこれを禁止没収したら、イギリスが激怒し、アヘン戦争(1840年~1842年)が起こった。最新鋭のイギリス艦隊に清軍は歯が立たず敗戦し、香港がイギリスに割譲され、清国は西洋文明の恐ろしさを知ることになる。イギリスはやくざの親分みたいだな。
林則除は大臣を解任されたが、彼の友人である儀源は対策を研究し、「海国図士」を著し、「西洋の長所を学んで、西洋の侵略を制する」を主張した。
ホワットマンとなった儀源の本は清国では広まらず、日本ではこれが大いに普及した。「海国図士」が多数の幕末の志士(吉田松陰佐久間象山西郷隆盛等)に読まれ、やがて日本にもペリーの黒船が来航し、それに対抗すべく1968年に明治維新となった。中国では、西洋文明や明治維新から刺激を受けた孫文が1911年に辛亥革命をおこし、やっと清国を倒し、共和国(中華民国)を作った。

最強ハウマン項羽 VS 人気者ホワットマン劉邦

 秦の始皇帝が亡くなり、秦帝国が衰退期に入ったとき、中国に二人の英雄が現れ、覇権を争うことになる。

 楚の項羽は、鬼神のごとき武勇で秦帝国を滅ぼした。漢の劉邦は、軍事的才能はないが余人にはない人柄で優秀なハウマンを集め、漢帝国を興した。

 劉邦の元に、後方支援、内政に秀でた蕭何とその部下であった軍人として優秀な曹参がいた。また、背水の陣で有名な天才的軍人の韓信劉邦の元で様々な戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定づけた。

 一方の項羽は勇猛な軍人であったが、優秀な亞父と呼んでいた范増や自分の将軍を疑うようになり、しだいに劣勢になり、四面楚歌となり、滅んだ。

 劉邦のハウマンたちが総合力で項羽一人の力を上まったようだ。

法治主義のホワットマン韓非子と秦帝国

 韓非は中国の諸子百家が全盛のころ生まれた。韓非は性悪説を説く儒家荀子に学んだといわれ、非道の行いを法によって抑えるべきと法治主義を主張し、ホワットマンとなった。韓非は、「君主の権力を法によって一元化し、体系化をすることにより強国となる」と唱えた。また、君主は部下が言ったことと実行したことが一致するかを確認し、一致する部下を評価しろと説いた(言動一致)。部下が「作業は三日でできる」と言って三日でできたら評価し、四日や二日でできても評価するなと説いた。現代のビジネスマンにも通じるものがありますね。

 韓非の思想は出身国の韓国ではなく、敵対する秦国によって高く評価され、取り入れられた。秦王は中国を統一し、秦の始皇帝を名乗り、部下の一族などに領地を与え世襲していく封建制度を改め、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への転換を行い、中央集権制度を確立した。

 始皇帝からの信頼を得たが、その才能を恐れた始皇帝の重鎮李斯の謀略にかかり死にいたった。

始皇帝が生きている時は順調な秦帝国であったが、行幸中に病死すると、重鎮の趙高は宰相の李斯を巻き込んで、始皇帝の遺言を書き変えて凡庸な末っ子の胡亥を測位させた。趙高は胡亥を丸めこみ、バカ殿に祭り上げ、皇帝の仲介者となり、秦帝国の実権をにぎることになる。ここから、私利私欲まみれのハウマン趙高の恐怖政治が始まる。李斯をはじめ反対者を落としいれ、刑死させた。またアホの語源になったといわれる阿房宮を増築し、帝国の人民を疲弊させた。

 ある時、趙高は皇帝の前に鹿を連れて行き、「馬を献上します」と言いました。当然皇帝は「鹿ではないか」といいます。そこで超高は「これは馬か鹿か」と群臣に問いかけました。へつらって馬だというもの、反抗して鹿だというものに分かれたが、後に趙高は反抗した者たちを根こそぎ処刑したそうな。この故事が馬鹿の語源となったよう

だ。

 韓非子の裏をかいた超高が原因で秦帝国は10数年で滅亡することとなる。

ホワットマンなき日本の野党

 現在、政権与党の一強時代が続き、野党は与党のスキャンダルや大臣の失言さがしに躍起です。スキャンダル探しも重要ですが、それだけでは、政権交代はできません。政権交代にはちゃんとした政権構想、政策が必要です。政権構想をもったホワットマンが党首となり、それを実効するハウマンを集め、その政権構想を国民に宣言し、国民の支持を集め、政権交代をし、政権構想、政策を実行する必要があります。

 1993年(平成5年)、日本新党代表の細川護熙が2大政党制の政治改革と規制改革の政策を掲げ内閣総理大臣となった。
 非自民・非共産8党派の連立政権である細川内閣の発足により、1955年(昭和30年)の結党以来38年間政権を維持し続けた自由民主党は初めて下野することになった。

 細川内閣は政治改革は実現するも、政権基盤が弱く、すぐに政権は自民党に戻った。そして、次に民主党政権交代という政策?を掲げ、鳩山内閣ができたが、民主党内閣は党内がまとまらず、迷走し、また、自民党安倍内閣になった。

それ以降、野党には政権構想を持つホワットマンが現れていません。政権交代というホワットマンは一回こっきりしか使えません。

 地方政治にはホワットマンが現れるようです。橋本徹大阪府知事時代に、大阪都構想のホワットマンとなり、維新の党を立ち上げ、府知事から大阪市長に転身し、大阪都構想を実現すべくハウマンとして巧妙に立ち回った。結果的に、都構想案は住民投票において僅差で却下され、その結果、橋元徹は政界を引退した。しかし、大阪都構想は大阪の松井知事と吉村市長に引継がれた。

 政党の党首は目的を明確にしたホワットマンであるべきである。目的に賛同した党員はハウマンとなり目的を遂行するため奮闘努力すべきです。

花見文化のホワットマンは奈良時代の貴族

 日本の花見は奈良時代の貴族の行事が起源だといわれる。奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が鑑賞され、平安時代に桜に代わってきた。それは歌にも表れており、『万葉集』には桜を詠んだ歌が43首、梅を詠んだ歌が110首程度みられる。これが10世紀初期の『古今和歌集』では、桜が70首に対し梅が18首と逆転している。「花」が桜の別称として使われ、女性の美貌が桜に例えられるようになるのもこの頃からである。

 アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.ポトマック河畔には、1912年に東京市から寄贈された桜が植えられており、全米桜祭りが毎年行われている。アメリカでは日本のように屋外で飲食ができないようです。

 毎年、桜の咲くころ、海外から日本に多くの花見客が訪れるようになった。