ホワットマンとハウマンのブログ

ホワットマンは新しい仕事を考案する人、ハウマンはその仕事を実行する人

日本史のホワットマンとハウマン

西洋文明のホワットマン ペリーの黒船来航と戦艦大和

嘉永6年(1853年)に、ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、通商開国を求め日本に来航し、日本中が大騒ぎとなった。江戸湾に停泊する黒船の大砲の射程距離が江戸城に届くことを知った江戸幕府は驚愕し、翌年に日米和親…

ホワットマン徳川家光のよる鎖国政策

ホワットマンの三代将軍徳川家光は島原の乱のあと、寛永18年(1641年)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である鎖国体制を完成させた。 また、家光は、大名の改易や領地替え等を行い、参勤交代制度を作り、諸大名を掌握した。 幕…

ハウマン石田光成 VS ホワットマン徳川家康 @関が原

秀吉が死んだあと、その子秀頼は幼いため、徳川家康がホワットマンとなり政治を動かすようになってきた。秀吉の優秀なハウマンであった石田光成は打倒家康を掲げ、西軍を集め、東軍の家康と1600年に関ヶ原で対峙した。ハウマンがホワットマンに勝てるわけが…

ホワットマン織田信長のホワットを引継ぐ豊臣秀吉

天下布武後、自身の処遇が心配な羽柴秀吉は織田信長にしつこくその政策を尋ねたと思われる。(天下布武後に源義経のように捨てられたら困る) 織田信長はおそらく、羽柴秀吉と明智光秀は海外要因であると答えたのではないだろうか。 この時代、スペインとポ…

ホワットマン羽柴秀吉 VS ハウマン明智光秀 @山崎

本能寺の変を聞きつけた備中で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉は毛利氏と速やかに講和し、織田信長の敵を討つため、備中から京に進軍した(中国大返し)。姫路城に所持していた全財産を部下に分け与えねぎらった。 大阪では、摂津衆の高山右近、中川清秀などを…

本能寺の変! 明智光秀に対抗できないハウマン丹羽長秀

本能寺の変が起こったとき、織田軍団の柴田勝家は越後の上杉氏と対峙し、羽柴秀吉は備中で毛利氏と対峙していた。滝川一益は関東の北条氏と退治していた。徳川家康は信長の招待により、少人数で堺にいたが、本能寺の変を聞き、命からがら浜松に逃げ帰った。…

ハウマン明智光秀の逆襲 本能寺の変!

天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都の本能寺に滞在していた織田信長を家臣のハウマン明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である。信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。 これで天下を掌握したハウマンの…

日本史上最大のホワットマン織田信長

戦国時代、種子島に鉄砲が伝来した。これ以降、西洋文明、キリスト教文明というホワットマンが日本に上陸した。本来ならば、江戸時代後期の黒船来航のように、日本国中が上へ下への大騒動になるはずであった。しかし、その時、織田信長という日本史上最大の…

鉄砲伝来のホワットマン種子島時堯(たねがしま ときたか)

1543年8月25日に種子島に一艘の船が漂着した、そこには鉄砲を所持したポルトガル人が乗っていた。接見した賢明な領主の種子島時堯(ホワットマン)は、初めて見る鉄砲の重要性と何をすべきかを理解し、大金を払い、鉄砲二丁を購入し、家臣に使い方と火薬…

御醍醐天皇(ホワットマン)による建武の新政

ホワットマンである後醍醐天皇は天皇や公家による政治を復活させるため、各地の反幕勢力(河内の楠木正成、播磨の赤松則村等)に鎌倉幕府を倒すことを示唆した。御醍醐天皇を追悼するため、幕府から派遣された足利高氏は御醍醐側に付き、京都の鎌倉側の六波…

源頼朝(ホワットマン)と源義経(ハウマン)

ホワットマンである源頼朝は平家追討を掲げ、弟の義経を西国へ派兵した。天才的兵術家であるハウマンの義経は一ノ谷の合戦、屋島の合戦、海戦が得意な平家に壇ノ浦でも勝利し、平家を滅ぼした。しかし、平家追討が終了し、兵術家ハウマンは不要となったのか…